2012年6月5日火曜日

和書:午前0時の忘れ物

日本一時帰国中に購入した、和書の読書感想の一冊目です。赤川次郎氏の本を読むのは、初めてなのですけど、表題が、素敵だなと思ったことと、裏表紙の、バスの事故で亡くなった人々から、残された愛する人々へ届くメッセージのファンタジーという解説に惹かれて、購入しました。 読後、なんとなく、しっくりこない気持ちで、アマゾンジャパンのレビューを、見たのですけど、最高の評価。でも、私には、いまいちの本となりました。たぶん、年齢とか、実際に、親とは別の、ものすごく近い人の死を経験したことがあるかないか、ということで、感想も違ってくるのではないかな、と、思うのですけど。 物語は、バスの湖転落事故で亡くなった被害者の家族と元恋人が、届いた不思議なメッセージに導かれて、深夜、バスターミナルに集まり、被害者と、一時間の再会を果たすというもので、集まった人々も、大学生、年配のやくざのドン、社長婦人など、様々。お話も滑らかに進んで、本自体は、とても読みやすいのですけど、まず、死に関することということで、死後、死んだ者は、どこに行くのか?ということで、私には、どうなんだろう?と、なってしまいました。若くして亡くなった事故の被害者が、寂しさのため、会いに来た、元恋人の彼女の死を願うとか、亡くなった妻と孫と一緒に、一時間の会見後、自分も、事故にあったバスに乗り込むことを選ぶという年配のやくざのドンの言葉から察するに、事故で亡くなった被害者達は、事故で湖に沈んだバスの中に、死後も、そのまま留まっているというという設定のようなのですけど。そして、1時間の再会を終えた後、死んだ者達は、再び、泥で汚れたバスの中に戻り、湖の底へと戻っていくということのようなのですけど。お浄土とか、成仏するとか、そんなことが、本当かどうか、論じる気はないのですけど、皆さんは、どう思いますか? ずいぶん以前に、宮本輝著の海辺の扉という、思いがけずに、自分の手で我が子を死なせてしまったという主人公の本を読んで、その中の一部に、今では、記憶もあやふやなのですけど、仏教の輪廻転生とは、何度も何度も、ある時は、親として、そしてある時は、子供として生まれ変わりながら、こうして生まれてきた意味はなんだったんだろう?こんな経験をする本当の意味はなんだったんだろう?というように、学んでいくもので、それなら、あんなに幼くして、自分の父親に死なされてしまった息子が、生まれてきた意味はなんだったんだろう?と、考える部分があって、私も、この出会い、この経験の意味は、なんだろう?と、普段、考えるようになったのですけど、今回読んだ、午前0時の忘れ物にも、そんな深い人生や生と死に関する深みを期待していて、ちょっと期待はずれになってしまいました。 そして、これが一番大きい理由かもしれないのですけど。 私自身、毎日、毎日、話をして、主人とはまた別の、自分の生活の一部のような、とても大切な友達を、突然、亡くしてしまい、体の中を爆風が通過したような、心臓がつぶれてしまったような思いをして、あまりのことに、あの頃のことが、空白になってしまっていて、記憶がなくて、今でも、彼女のことは、人とは話せないままなのですけど、この午前0時の忘れ物を読んだ時には、大切な人を亡くしてしまうって、こんなにさっぱりできるものなのかな?と、思ってしまいました。特に、最後の部分、死んでしまった人々が、泥で汚れたバスに戻って行く時に、さようならを言って、お見送りができるものなのかな?とか、思ったのですけど。私も、お別れを言わなければいけないことはわかるけれども、湖の底へ戻る、泥で汚れたバスには、とても送り返せない。極楽浄土へ、旅立って欲しい。いつかまた会える日まで、天国で待っていて欲しい。この本の終わり方がどうのという気持ちはないのですけど、今の私にとっては、ちょっと違うかなという感じで、うーん?という、読後の感想となりました。 以下のランキングに参加しています。よろしかったら、クリックをお願いいたします。
にほんブログ村 本ブログ 洋書へ
にほんブログ村
人気ブログランキングへ